キラキラの方へ。

しがないミソジのゆるふわ雑記

オリパラがなくなった世界線と『ハウ・トゥー・サクシード』

ハウ・トゥー・サクシード』東京公演の無事の終了、おめでとうございます!

と、いうことで行ってきました。ファンクラブでは外れたけれど、ぴあで手にした1公演に。当たらなかった方や様々な事情により断念された方が今回は特に多かったに違いなく、貴重な公演に行けたことを自覚し、つたない感想を記しておくことにしました。

ただし!!先に謝っておきます。増田さんについての詳細はほぼありません!!まさかの!!笑 出演者の方のことを書いているわけでもありません。ミュージカルについても初心者だし。

では何について書いているか?というと、自分の戸惑いについて。鑑賞中から鑑賞後にかけての紆余曲折を書き残そうと思います。

ちなみに、鑑賞前に私がインプットしていた情報は報道の範囲内。だから作品評価をご存知だったり、パンフレットをすでにお読みの方には無縁の戸惑いかと。そういう意味では、ほぼまっさらな状態で見た人間による素直な感想になっているはず…。そんな目線でお読みください。

 

目次

 

あらすじ(『ハウ・トゥー・サクシード』サイトより)

ビルの窓ふき清掃員フィンチ(増田貴久)は、ある日「努力しないで出世する方法」という本を読んで感化され、出世を強く意識するようになる。“入るべきは大企業”という本の教えに沿って、ワールドワイド・ウィケット社に飛び込んだフィンチは、偶然出会った社長のビグリー(今井清隆)に直談判。そんな彼を一目で気に入った秘書のローズマリー笹本玲奈)は友人である秘書のスミティ(林愛夏)とともに何かと世話を焼く。人事部長のブラット(鈴木壮麻)に社長の関係者だと勘違いされたフィンチは首尾よく入社、トゥインブル(ブラザートム)が郵便室長を務める郵便室に配属される。そこには社長の甥で出世を狙うバド(松下優也)がいた。本の教えに沿って行動するフィンチは、社長秘書のミス・ジョーンズ(春野寿美礼)にも気に入られ、ヘディ・ラ・ルー(雛形あきこ)という専属秘書も付き、出世はトントン拍子。ローズマリーとの恋も上手く運んで、全てが順調…だったある日、重大なアクシデントが発生。果たして、フィンチの幸運もこれまでなのか…!?

www.howtosucceed.jp

 

ハウ・トゥー・サクシード』の世界に戸惑う

わりと古風なコメディ。往年の、的な。コメディってある程度感覚を絞って複雑にはせずに演出する向きがあるのだろうと思うけど。今のところどの人物もまぁまぁそのままなので、もう少し深みを見たいかな。そうでないと名作ではなかったろうと思うし。

ハウ・トゥー・サクシード』は前後半に分かれていたので、途中休憩にざくっと書いた感想(の一部)がこれ。「名作ではなかっただろうし」などと素人が偉そうに書いている…というわけではなく、前半を見た時点で私は「???」の渦に巻き込まれていたのです。

その主な原因はステージ上で起こっていることと私が見ている現実とのギャップ。『ハウ・トゥー・サクシード』の世界があまりに古風な設定の、古風なキャラによる、古風な人物描写に思えたんです。

1961年にブロードウェイで初演されたという『ハウ・トゥー・サクシード』。その頃の状況はわからないのですが、フィンチが出世を目指している舞台上の世界は、縁故主義に学歴や男女格差、セクハラパワハラが蔓延していて、それが当然のこととして受け入れられていて、誰も批判や疑問を提起しない世界でした。*1 そんな世界をフィンチがうまく乗りこなしてサクセスしていくおもしろさはあるけれど、「それだけ?まさかこのまま終わらないよね?」というのが前半の感想でした。(パフォーマンスとか演出とか曲とかについての感想をすっとばして申し訳ない~。)

そして後半。......いや、前半とあんまり変わんない。サクセスは小気味良いけれど...ジェンダー観は「?」なことばかりだし...出世自体に対する疑問はないし...登場人物はひたすら型通りで...あと、いかにもな“古き良きアメリカ”感が強くて…きっとみんな白人で…BLMなぞどこ吹く風で...etcetc. コロナ禍の現実に対して、この世界はあまりに“のどか”で前時代的じゃなかろうか、と。事務所への懐疑心が、私の中でむくむくふくらんでいったわけです。(なぜ事務所)

 

オリパラと『ハウ・トゥー・サクシード

そんな風に、この作品をどう理解したら良いのかと鑑賞中に考えるでもなく考えていた時にふと思い出したのが「この舞台は本来であればオリンピックとパラリンピック後に行われるはずだったんだ」という事実でした。

そこで、私はオリパラ後の世界線を想像してみました。それはきっと”お祭り”の余韻が残る少しうかれた感覚、あるいは満足感や燃え尽きた感につつまれた軽い疲れのある世界。だとしたら、頭を楽にして見られる小気味よくテンポの良い明るくエンターテインメント色の強いミュージカルは確かにハマっていたのかもしれないな、と。

そう思うことで、自分の「???」をなんとか解消しようとしていました。「オリパラがある世界線にはきっとハマっていたんだ。こんなに現実と解離してしまったことが想定外だったんだ。」と。

そこに来た「世界は一つ」。オリパラ来たーーー!!感がすごかったです。これか、と。オリパラの世界線はこれだったか、と。最後の最後に達成したフィンチのとびきりの出世と、彼の主張「世界は一つ」のパフォーマンスが高いテンションで混ざり合い、会長へのどさくさ提案も勢いで受け入れられ、あれよあれよという間に怒涛の終演。

「世界は一つだ」という響きの良いフレーズに浮かされて、なんとなく善行に関与しているような、友愛の精神に包まれているような、一段高い目線で人類を俯瞰しているような...、つまり細かいことは置いておいて人類皆兄弟!!そんな脳内麻薬が効いた状態にさせられる。まさにこれぞ一種のオリパラ効果ではないか、と。(ある一面の話です。)

そのカラ騒ぎに飲まれ圧倒され気持ちが高まってしまうのは、素晴らしいパフォーマンスだからこそ。けれど実際には何が起こったのか把握できていないような、そんな高揚とかすかな戸惑いがチグハグに混ざり合った終演でした。

 

祭りと人間

続くカーテンコールで、また一つおもしろい体験をしました。

登場した演者さんたちが急に”人間”に見えたんです。なぜそう感じたのかはっきりとはわからないけれど、先ほどまで演じていたキャラがとても“キャラ”だったから、キャラとして作り上げられていない仕草や表情に「あ、人間だ」と感じたのかもしれないです。すると、先ほどまでの”カラ騒ぎ”とそれを演じた生身の人間との対比が急に鮮やかに感じられました。厳しい感染症対策を乗り越えてようやく実現した舞台。この一瞬で消えてしまう”カラ騒ぎ”を生み出すために、生身の人間がいかに精魂尽くしていることか!愛おしいような切ないような気持ちがブワッとわいてきました。

それはオリパラとも重なりました。あれが一時の”お祭り”*2 だったとしても、実際にそれを動かし現場で働いているのは生身の人間なわけで。東京でオリパラを行うことを望んでいたかと問われると私自身はさくっとうなずけないけれど、そこに力を注ぎその中に生きていた人も確かにいるんだよなぁと。そうしたオリパラの唱える「世界は一つ」*3 の陰にある目的が、誰かの出世やレガシーや(以下略)だったとしても。そうしたオリパラに想いをかけた人たちの幻をこの舞台に見た気がしました。

オリパラがなくなった世界線でこの舞台を見るのはなんて皮肉だろうかと現実との高低差を感じつつも、現実がこうだからこそリアルにせまってくる面があるのかもしれないな、とも。もしオリパラがあった世界戦でオリパラ後にこの舞台を見ていたら、ただするっと楽しく見ていたかもしれません。

会場を出ると、たくさんの人が同じように会場を出てポスターを撮影したり感想を話したり階下に移動したりしていました。そしてヒカリエ11階からの窓の外に広がるのは東京の景色。それにまた一つジンとしてしまいました。自分を含めこんなにたくさんの人がこうした”カラ騒ぎ”のような一瞬を求めて集まっていること、本来ならこの倍以上の人たちが来ていた舞台だったことに、改めて増田さんはすごい仕事をしているなーと。演者さんをはじめとした関係者の方々のように”一瞬”に夢を持って情熱を捧げている人がいて、それに触れることで心動かされ夢のカケラを持ち帰る人がいて、そしてそれは他の場所でまた別の形になって...。「今だからこそ、この作品を上演する意味をより深く胸に置きながらフィンチという役を演じたい」*4 といった増田さんの言葉も思い出され、私自身もコロナ禍初の久々の舞台だったこともあり、なおさら胸に来てしまったのでした。人間の生み出す”カラ騒ぎ”は、やっぱり人間に必要なものなのだと。

 

パンフレットをいつ読むか問題

壮大な皮肉。それが私の『ハウ・トゥー・サクシード』の感想でした。
けれど心のどこかでは、こうして感じたのは私が3階席で見たことが原因かもしれないとあやしんでいました。表情までははっきり見えず、舞台全体を上から俯瞰するような見方になったから、人物にフォーカスするよりも関係性や全体感の方を強く感じたのかも、と。

そのため、この”皮肉”がねらったものだという確信はもてませんでした。だって純粋に楽しいコメディとしても見られる作品だとも感じたから。”皮肉”だと感じるのは、オリパラがなくなったせいであり、私の受け取り方のせいなのではないかと。

で、購入したパンフレットを読んでみたわけです。そうしたら!!語られているではないですか!!「ステレオタイプな見識へのシニカルな指摘をコミカルに提示」*5、「人間のズルさや愚かさを社会風刺的に描いたブラック・コメディ的作品」*6 等々と。演出・振付のクリス・ベイリーさんと増田さんの対談にもそれはそれはばっちりと。

いやはやそうでしたか、と。確信犯でしたか、と。思えば、オリパラがあったはずの世界線だって、『ハウ・トゥー・サクシード』の世界に違和感を感じないくらい”のどか”で前時代的ではなかったよね、と思い出しました。*7 前半モヤモヤしまくり、後半なんとか筋を見出そうとした私の紆余曲折はこうして落ち着きを得たのでした。もちろん制作者側の意図が”正解”というわけではないし、最重要というわけでもないのだけどね。

もしパンフレットを先に読んでいたら、全く異なる鑑賞体験をしていたかもしれないなぁと思うとおもしろいです。そして、ここまでの紆余曲折はよくあることでもないなと、ここに書き残すことにしたという次第です。

私はこういうタイプの作品を見た経験が少ないのかもしれません。私の中では、皮肉な結果に落ち着く作品というものは、何かが間違っていると伝わってくる嫌~な雰囲気が演出されているものだというイメージがありました。でもこの『ハウ・トゥー・サクシード』はおかしなことはありつつも、一種の「あるある」として受け入れられ、明るくゆかいなサクセスストーリーとして大いに楽しめる作品だと思うのです。最後にどんでん返しや核心に迫る問いかけがあるわけでもなく、一見”ハッピーエンド”の喜びまで与えてくれる。

けれど、時代背景を踏まえると、かなり辛口の風刺的側面をもつ作品だったんだろうなと改めて想像します。フィンチが足がかりにするのは全て世の中にあるモヤモヤ。私が感じたモヤモヤである縁故主義に学歴や男女格差、セクハラパワハラ(見えないところにある人種差別)は、たぶん今よりもっと定番だったにせよ、その頃だって胸をはれたものではなかったはずですよね。だからその存在を指摘して陽の元にさらすだけでも見る人を苦笑いさせ、しかもそれを是正するのではなく逆手にとって出世の道具にしていくことはさぞかし痛快に感じられただろうな、と。登場人物の考えが全て、“恥ずべき”“脱却すべき”ステレオタイプの表出と位置づけられていたのだとしたら…。私が特に気になったのは女性の描写なのですが、ヒロインのローズマリーが家庭で夫を支える妻を理想像にしていたり、女性の年齢を「熟しすぎた彼女とフレッシュな君」と表したり、女性の職種は秘書のみで女性にとっての出世は上司との結婚でそれが働く女性たちの最高の”夢”でローズマリーはそれを託された存在だとかいう全てが実は皮肉として歌われていたのだとしたら?(現在も選択肢の一つとしてそう考える人がいるのはまるで問題ないものの。) 今だってドキッとするのに、時代背景を考えるとそうとうな鋭さだったのではないかと震えます。

そしてフィンチはそうしたモヤモヤの扱いにのみ長けていて。演出・振付のクリス・ベイリーさんが「この物語は、一番賢い人がトップになるかといえば、そうでもないよという皮肉や風刺が込められている」*8 と指摘しているように、フィンチはトップになる実力があるのか大いに疑問を抱かざるを得ない人物。ただトップになるための駆け引きに長けているのみという、このモヤモヤ社会の皮肉が凝縮された人物という気がしました。*9


また、私は現実とのギャップを感じたけれど、本当にギャップがあるのかな?とも考え直しました。私が感じたモヤモヤは一昔前よりも問題視され批判的に語られるようになっているのは間違いないけれど、実際には大なり小なり変わらず存在し続けていることも明らか。それに、たとえ過去のものになったモヤモヤだって現在の別のモヤモヤに置き換えることはいくらでもできるわけで…。

ハウ・トゥー・サクシード』をオリパラ後の演目として選んだ関係者や事務所はなかなかだなと感心しました(上から?)。鑑賞中、一瞬事務所への不信感がわきあがっていたことを反省します笑。ほぼ初のミュージカルで、こういう作品に触れる機会をつくってくれたことに感謝です。

きっと、オリパラ後のなんだかんだ高揚した世界線においては”カラ騒ぎ”を揶揄することは気の利いた皮肉だったろうと思います。薪をくべるふりをしてこっそり冷や水をかけるオトナの遊び、的な。けれどもコロナ禍の世界線においてはそうした冷や水をかける対象だった”カラ騒ぎ”が大きな打撃を受けました。だからある意味とても重く、私について言えば、”カラ騒ぎ”に懐かしささえおぼえてしまったのだと思います。たとえ問題をはらんでいたとしても、人間がそれを求めてしまう性にしみじみしてしまうのは今だからこその感想なのかもしれません。そういう意味でも、今見られたことが貴重な体験になりそう。名作でした!!(前半を見たときの自分へ)

 

増田さんのことのような増田さんのことでないような感想

私は増田フィンチに目がガラスみたいに透き通っていてつかみどころがない人物という印象を受けました。*10 フィンチの目的はブレないのに周囲が振り回されていく様子に、フィンチはいったいどういう思考回路をしているんだろうか?と。もし表情が見える場所で鑑賞してたらフィンチが悩んだり決意したり驚いたりする様子が見て取れたのかもしれないですが、あいにく遠目からの鑑賞で、しかもストーリー的にフィンチの仕掛けには後から気がついて驚くという流れになっているので、フィンチのねらいや頭の中はあえて隠された構成になっているものだから。唯一下心や駆け引きなしにフィンチの心が見えたと感じたのは恋に目覚めるシーンでした。けれど彼の最重要目的である「出世」の前には、後回しにすることも可能な感情だとすぐにわかり…。(それに対してローズマリーが不満を抱いていることに気づかないくせに、知らされた途端にすかさずスマートにフォローするところも、ねぇ。) 出世よりも、ひどく人間らしい欲望を優先させてしまう周囲の人物たちがむしろ愛らしく見えてきて、フィンチはなんとも不思議な人物にうつりました。

そこで思いついたのが、フィンチAI説

鉄腕アトム(概念)に「出世」をミッションとしてインプットしたら、あんな風に突き進むんじゃないかなぁなどと。「出世」して実現したいことがあるようには見えないのに、目の前の仕事はほどほどに、純粋にひたすら「出世」を追求するフィンチ。「出世」自体が目的化している姿はいっそ清々しい。果てはローズマリーがぽろっと言った大統領を目指しそう。

一方で、フィンチは人間の欲望を解していないわけではありません。むしろ人間の欲望を熟知している。周囲にどういう欲望がうずまいているのか的確に判断理解して回避したり仕掛けていく。罠にかけることの罪悪感はなく、それどころか「出世」を阻むものへの憎しみや妬みも感じさせず、まるで数学の問題を解くように最短ルートを計算した結果、周囲の人間が自滅していくだけ。最終的にフィンチに恐怖心を抱く気持ち、私はわかる気がします。

このひたすらクリーンなフィンチ像、増田さんもねらって作っているとのことですが、増田さんの声の特色あっての人物像だとも感じました。増田さんの声にはピュアバージョンがあるじゃないですか。(バージョンとは。) その純粋な声なしには生まれなかったフィンチ像なのではないかと。ただただまっすぐなAIフィンチ(違う)だからこそ、「世界は一つ」にもついつい「君が言うなら...」とほだされてしまうのではないかと思ったりしました。ちなみに、恋に目覚めるところなんかもAIっぽくないですか?笑 自分の感情には鈍感で。

 

果てしなくざっくり感想

・「コーヒーブレイク」私も好きだな。私もコーヒーブレイクがなかったら生きていけない笑

アナグマVSシマリスの「我がオールド・アイビー」良かった!シマリスポーズ大好き。

・スミティが好きだった。 声も役柄も。“小賢しい”系のキュート女子に魅かれがち。

・増田さんのジレスタイルが見れたのもうれしい!もっと近くで見たかった〜。(そこ)

  

以上、楽しい紆余曲折の記録でした。一回見たきりの感想なので聞き違いや漏れのため勘違いしているところもあるかと思いますが。

大阪でも無事幕が上がり、たくさんの人が作品に触れられることを願っています!

 

 

余談:めっちゃバナナ

増田さんが飲んだというめっちゃバナナ*11。私が行ったのは話題になる前だったのですが、偶然にも飲んでいたのでテンション爆上がりました笑 13時開演なのに昼食をとっておらず、しかも開演まで30分切った状況。とにかく何か腹に入れなくては!と手軽に食べられるものを探し求めていたらヒカリエを突っ切ってしまい、せめてコンビニはないか?と周囲を見回したときにあったのがこちらでした。バナナ!!即戦力!!ということで、おいしくいただきダッシュで11階へ。お腹が鳴ることもなく最後まで見ることができました。感謝。

 

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*1:「秘書はオモチャじゃない」があったか!でもたぶんそれくらい。

*2:アスリートにとっては、もちろん異なりますが。

*3:「人類が疫病に打ち勝った証し」とかも

*4:『STAGE SQUARE』vol.46、p12、2020年8月27日発売、マガジンハウス

*5:ブラット役 鈴木壮麻さんコメントより

*6:J・B・ビグリー役 今井清隆さんコメントより

*7:何か起こると「前は良かった...」みたいに思いがちだけど、前も前で大概だったんだよね。抱えていた問題が今は露呈しているだけで。

*8:パンフレット、クリス・ベイリー×増田貴久 対談より

*9:けれどトップになったら、人をひきつける目標を掲げる能力さえあれば、あとは下がやってくれるのかもしれないですね。かえって、そうした不平等な条件下にいることに気がつかず全て自分の”実力”だと思い込んでいるような人物が実力主義を唱えてトップになるより、フィンチのような実力なんてどこ吹く風で世界平和を歌う人物をトップに掲げる方が幸せかも。

*10:キュピーンあるいはキャハッみたいな効果音のシーン(伝われ)で、どんな表情をしてたのか知りたいです。私の中では「あれれ?(わざとらしく)」「ええ!まさか!(わざとらしく)」なイメージ笑

*11:ヒカリエShinQs 店 | めっちゃバナナ

キャラ化と心と希望と(新月):今、「手越くん」を感じるモノたち(2019年12月)

2019年の手越くんの誕生日(の1ヵ月後)にほぼ書きあがってたのに、タイミングと仕上げる気力に難があって、アップするにいたらなかった記事を。

なんで今?って感じですが、今あげないと次いつになるかわからないから。いわゆる「下書き供養」として、今の心境は反映させずにアップさせてもらいます。

内容は誕生日にかこつけて、その人のイメージに重なる美術作品をピックアップした、という超私的な記事です。一NEWSファンから見た手越くん像として。

 

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そう、2019年11月11日は手越くんの32歳の誕生日!!…でしたね!!おめでとうございます!!

今年中には全員書かねば!という謎の使命感により誕生日企画(1ヵ月以上過ぎて?)をアップいたします~。ええ、自己満足のために!!(剣を高々と上げる戦士のポーズをあおりでイメージしてください。)

 

手越くんについても2017年にスピッツの曲にからめて書いたとき以降、なんだかんだありつつも印象が大きくは変わらない…ということで、イメージ語りはすっとばして作品ピックアップへ移ります~。

なお、今年書いた増田さん・加藤さんと同様に、ほぼ2018年時点で選んでいた作品からあまり変更はしていません。ですので、その時期の影響が強いかもしれません。つまり少々重め?

それと、ピックアップした作品が、ちょっとイラっとさせてしまう可能性があります。でも本当に変な気持ちで選んだわけではなく…まぁそれは作品のところで書きますね。

さらに、私はNEWSとして活動している時の手越くんの印象しかないタイプのファンなので、多くのファンの方々よりも見ているものがかなり狭い。そして、バラエティのイメージがメインのような一般の方の目線とも異なる。だから少々特殊な手越観になっている可能性が高いです。

…というわけで、「へ~こんな風に手越くんを見ている人もいるんだ~」くらいにゆるーく受け取っていただければ幸いです。

 

 

1.「キャラ化していく手越くん」について

村上隆《My Lonesome Cowboy》1998年/ミクストメディア/254 x 116.8 x 91.4 cm

WORKS | Kaikai Kiki Gallery

(今現在は7ページ目にチラッと写真があるけれど、随時追加されるようなのでページがずれていきそう。)

www.artnet.com

この作品、私は東京都現代美術館での展示*1 で見たのだったと記憶しています。くるりの曲の詞が展覧会タイトルになっていて、関連イベントとしてくるりのライブイベントなどもありました。ライブには行っていないけれど、個人的にはその頃を象徴する1ページ感がある展覧会です。

この作品を見たときの印象は明確に覚えていません。「?」「なんとなく不快」「オタク文化をアートにするとこうなるのか~」みたいなのがぼんやり混ざり合って、あまり深く考えることもなかったような気がします。けれど、なぜか今回思い出し、思い出した瞬間に「これだ!」となりました。

たぶん、多くの方はこの作品がピックアップされたことに眉をひそめている状態だと思います。私自身も言葉にするのが難しいのですが、ちょっとがんばって書いてみます。

 

この作品を15年以上経て改めて見たとき、「うわ、すごい作品だったんだな」と以前とは違う衝撃を受けました(遅い)。当時、村上隆作品は「オタク文化をアートにした」みたいな言われ方をしていたように記憶しています。その評価について、当時の私は”オタク文化”を再構成し、過剰にした作品、くらいの受け止め方をしていました(確か)。でも今回はそうしたオタク文化の”延長”ではなくて、オタク文化を突き放す意図的な”断絶”が存在していると感じて、そこに俄然興味がわいたのでした。と言うのも、この作品には虚像(イメージ)と実像の摩擦というテーマが読み取れる気がするから。

この解釈の変化には、この間に、私がアイドルをどっぷり好きになった経験を持ったことが多分に影響しているのではないかと思います。その経験が、”オタク文化”に対して、当時は持っていなかった視点を持たせたのかなと。そう考えると、ちょっと感慨深い。

まず、ファンによるアイドルのイメージの”消費”のし方は自己中心的である、という実感が鑑賞のベースとなりました。”消費”って言うと聞こえが悪いかな?”解釈”でも良いです。”解釈”はどうしても自己中心的、主観的になるじゃないですか。責めているわけではなく、そうなるしかない。だってアイドルは直接やりとりできる存在ではないから。自分の見たいところだけ見て、勝手に解釈する。ただし、それはファン自身にとって常に心地よいものではなく、逆だったりもする。自己中心的ではありますが、コントロールしきれるものということでは必ずしもありません。(アイドルには限らず、何でもそうではありますが。)そして、ファンの中にある解釈≒”虚像”も一定じゃない。例えば、普段は性的に見たりしないのに、時と場合によってはそうやって見たりもしちゃう。

けれど、当然アイドルには実態があるわけで。アイドルが実際に性的な現実を明かしてくると、とたんに自分の”虚像”との間に摩擦がおきて拒否反応が出たりもしてしまう。自分はちゃっかり性的に見ちゃったりしている時もあるのに、「そういうイメージは受け入れられない。隠しておいてほしかった。」みたいな。嵐のSNS解禁に伴い「身近になりすぎないでほしい。」というようなファンの声を見かけて、知りたいような知りたくないような…というファン心の複雑さを感じる今日この頃です。

 

で、作品に戻って。この作品には、そういった”キャラ化”している心地よい虚像と、わかっているのに見ないふりをしている居心地の悪い実像(この作品では性的な部分が強調されている)が混在していると感じるのです。うーん、なんて言ったらよいのかな。例えば、キャラクターを元にした二次創作作品などには性的なものも多いですよね。でも、そうした楽しみは基本は水面下のものです。その”お約束”をやぶり、この作品はそうした密かな楽しみであるはずの部分を白日の下にさらした。”公式”がめちゃくちゃあからさまに描写してきた!みたいな居心地の悪さ?それまで、自分だって性的に消費してきたことがあるにもかかわらず。

しかも、この作品がさらに上を行くのは、性的な部分をさらに”キャラ化”しているところ。過剰な演出で、まるでロープ投げ的必殺技(?)をしているみたいに見える。そこに再び微妙な気分にさせられます。「なに?隠しておいてほしい部分までも”キャラ”にしちゃうの?」と。こっそり”消費”していたことを、表に出されて見せつけられることの居心地の悪さ。さらには固定化されてしまう居心地の悪さ。なんとも奇妙なミックス状態。ちぐはぐのようなしっくりくるような、ファンタジーのようなただの現実のような。

やっぱりおもしろい作品。オークションで高値で落札されたことがニュースになっていたようですが、また見る機会はあるのだろうか…。

 

それでもって、本題!なぜこの作品を選んだか。

手越くんは、そうした「キャラ化」や「実像」との摩擦に敏感なアイドルのように感じるのです。敏感というより、さらされてきた、という表現が良いのかな?手越くんという”キャラ”がすごく強いからこそのジレンマなのかも。ソロ曲『DoLLs』では「俺は人形なんかじゃない」と宣言していましたし、それ以前も以後も折に触れてそうした人間宣言的な発信をしてきている印象があります。周囲からのとめどない”キャラ化”にあらがおうとしている?”キャラ”を通してしか見てもらえない関係を打破したい?ファンと近づきたいからこそ?一方で、”キャラ”を完全に捨てるのではなく、保ちながら更新しようとしているようにも感じる。私は、そんな手越くんをなんとも興味深い人だな~と思いながら見ています。

だから、この作品を選んだ理由にはそうした消費者である私自身の懺悔のような気持ちがあるのかもしれません。それと、手越くんの周りで起きている状況と、この作品に似たところを感じたのかな。この作品がピンと来たのはそのような理由です。うーん…伝わるかなぁ。

 

 

2.「心にすむ手越くん」について

奈良美智《My Drawing Room》2004年~/インスタレーション

の右の壁にある子どもの絵。です。

原美術館コレクション https://www.haramuseum.or.jp/jp/collection/

↑こちらの写真に写っている、右側の壁の棚の下、背景が茶色で赤身のあるワンピースを着た子どもの絵。 

期間限定!奈良美智「My Drawing Room」クリスマス展示(12/26まで) – ART iT アートイット:日英バイリンガルの現代アート情報ポータルサイト

↑こちらでは、最後の部屋全体の写真にちらりと写っています。

↓こちらは映像。1秒あたりと9秒あたりにかすっています。(だけど絵に札が掛けられていて一部隠れている…)

letronc-m.com

手越くん用作品には奈良さんを入れよう!とずっと思っていました。けれど、なかなかぴったりくる絵が見つけられないでいたところ、ピンと来たのがこの子でした。あんまりちゃんとした写真が見つけられなくてすみません…。何かしら、別の奈良作品を思い浮かべてお読みいただければ幸いです…(結局)。

何はともあれ、”かわいい”ですよね。にらむ、とは違うのかな~。見つめると言うか、視線をぶつけてくる姿が”かわいい”。抗っているのか、責めているのか、問うているのか。この作品を見ていると、自分の中にいるまっすぐな自分、あるいは過去の自分に見つめられているような気持になります。

手越くんってこういうところがあるなぁと思って選んでみました。こういう風に、人をハッとさせるところが。

個人的には、増田さんが言っていた手越くんのイメージ「ライオンのタテガミをつけた子犬」にイメージが重なる作品です。

それと、この絵を見ながらわいてくるのは、手越くんには”弱い”者の味方でいてほしい、という気持ちです。私は手越くんにヒーローでいてほしいようでして。”弱い”者を見下したり”強さ”を崇拝するような人は、私にとってはヒーローじゃない。”弱い”者は時に面倒くさい。なんで相手にしなきゃならないんだろうと思うのはもっともだと思います。あきらめたくなる気持ちも、一線を引きたくなる気持ちも全く否定できないし、心に負荷をかけすぎてつらくなってしまうなら切り離して無視してもらっていい。でも、私には手越くんに期待しちゃうところがあるみたいです。そういうドロドロした感情も明るい太陽のように包むような力があるんじゃないかな~って。

ごめんね。なんの支えにもならないのに期待だけ過剰で。

手越くんには、ずっとこういう目をしていてほしいなぁと思ってしまったりします。

 

 

3.「希望と手越くん」について

YOKO ONO《天井の絵/イエス(YES)・ペインティング》1966年/インスタレーション/Photo by Oded Lobi(c)

https://media.thisisgallery.com/works/yokoono_01

YES オノ・ヨーコ|現代美術ギャラリー|水戸芸術館 ←写真はないけれど作品紹介あり。

見たのは、東京都現代美術館『YES オノ・ヨーコ』2004年04月17日(土)〜06月27日(日)*2。この展覧会に行ったので見たはず…なのに全然見た覚えがない←。だけど選ばせてもらいます!見たはずなので!

手越くんを見ていると切なくなる時があるのですよね。まっすぐさが切ないのかな。ご本人は、ことあるごとにハッピーに生きていると報告してくれるので、ハッピーな目で見ていれば良いのですが、私自身が根暗だからか笑 

この作品もハッピーにも、切なくも感じられる作品だと思います。少し不安定な脚立に足をかけ、虫眼鏡を通してようやく見られるのは、小さな「YES」。あたたかく希望で包むようでもあり、細くておぼつかない一本の糸にすがるようでもある。

手越くんはこうした「YES」を信じている人だと感じます。かすかな可能性だとしても、”人”を信じている、と言うか。「いやいや全然、四方八方『YES』に包まれてるし?なんなら全部『YES』にしていく力があるし?」みたいなことをご本人は言いそうですが。

 

 

手越くんの作品選びをしようとした時、はじめはもっと動的な作品を選ぶことになるんだろうなぁと想像していました。ドローイング系とかでまとめようかなって。だけど、なんでだかそうなりませんでしたね。やろうと思えばできるんだけど。色バーン!動きバーン!パッションと主張バーン!みたいな作品を選ぶことも。(奈良さんのドローイングは初めから選ぶつもりでしたが。)

でも…私にとっての手越くんイメージだから。そこはあきらめて、今自分が感じるままの選出です。

 

 

編集後記的な。

これでNEWS全員分の×アート作品企画が終わりました!わー!!

作品選びの中で感じたのは、ある程度自分なりに位置付けられている作品でないと選びにくいということと、プロジェクト系作品の選びにくさでしょうか。プロジェクト作品が選びにくいのは、多数の人が参加する複雑な背景を一人の人物イメージと対比させるのが難しいのか、私の作品理解が追い付いていないためにイメージの着地点が見つかっていないからなのか…。たぶん後者の理由が強いかも凹

自分の思考の浅はかさを感じ、作品の知識とジャンルの狭さと少なさを感じ、それらから来る反省と恥を感じまくる企画でしたがなんとか完走できてほっとしました。

 

 

最後に、今一番手越くんを想うスピッツ

新月収録:アルバム『とげまる』2010年

とげまる | SPITZ OFFICIAL WEB SITE

tower.jp

新月

新月

  • provided courtesy of iTunes

スピッツもサブスク解禁しましたね。Spotify、これで貼れているかな?

open.spotify.com 

歌詞はこちら。

スピッツ 新月 歌詞 - 歌ネット

明日には会える そう信じてる あなたにあなたに

止まっていろと 誰かが叫ぶ 真中に真中に

それでも僕は 逆らっていける 新しい バイオロジー

変わってみせよう 孤独を食べて 開拓者に 開拓者に

 ”切ない手越くん”が好きな意地の悪い人間なもので、勝手に「切ないレイヤー」かけた選曲でごめんなさい。この曲を選んだのも2018年だったし…。微妙に暗い気分だったのかと。振り返れば。

でも、切ないというより、覚悟のような意志のような力強さを感じる曲でもあります。どう受け取るかは人によりそう。

 

 

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以上です。読み返してみると、けっこう感傷的であいまいですね。今書いたら、もう少し変わるかもしれない…。

 

お祝いのメッセージが、まだ書かれていなかったので、今書きます。

32歳は、手越くんにとってどんな1年になるのかな?もう半年たってしまったけれど…。

手越くんがまじりっ気のない笑顔で、明るい方へ、希望をもって歩き出せる1年になりますように

 

↓同じテーマの、他のメンバーバージョン。

2018年

chikachika04.hateblo.jp

 

2019年

chikachika04.hateblo.jp

chikachika04.hateblo.jp

 

 

傷と過去と人間と(ババロア):今、「加藤さん…」を感じるモノたち

加藤シゲアキさん、32歳の誕生日おめでとうございます!

8月になっちゃったけど!STORYの参加企画がスタートし、Strawberryの円盤発売が発表されたとこだけど!ほんとに「何で今⁉」ってタイミングだけど!!

やると言ったからにはやらねば!ってことで、私が各メンバーのイメージに合うと思うアート作品をピックアップしてみる、という不思議記事をば…。作品は実際に見たことがあるものしばりで選出。アート的背景は無視し(端的に言えば知識が足りない)、私の印象という独断と偏見で選んでおります。

×スピッツで行った2017年の時は、加藤さんのイメージを「我思うゆえに我あり」的、と書いていたのですね、私。*1 うん、あまり変わらない!笑

なので、早速作品ピックアップへ参ります~。

 

1.「深い傷と対峙する加藤さん」について

ソフィ・カル《限局性激痛》1999年/第一部:手紙、写真 第二部:写真、刺繍

https://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/382/


原美術館 「ソフィ カル ― 限局性激痛」原美術館コレクションより

↑こちらの展覧会で見ました。

下記、展覧会ホームページの冒頭のテキストから。

 「限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。*2

ここで「人生最悪の日」とされているのは、カルが最愛の人に別れを告げられた日。カルは自分が受けた傷との対峙の過程を作品に昇華しました。

作品は2部構成。まずは「人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部」。別れの原因を離れて過ごした時間(日本滞在)にあると位置づけ、日本滞在が決まり日本へ旅立ち、「人生最悪の日」を迎えるまでの92日間を1日1日ふりかえります。スタート~0:28頃までの映像を参照のこと。その日の写真には「人生最悪の日まで○日前」という赤い文字がパスポートのスタンプのように押され、「人生最悪の日」までのカウントダウンが行われます。

そして、第2部は「その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく」という構成。カルが「人生最悪の日」の体験をした部屋*3 の写真と、自身の「人生最悪の日」を語った言葉(刺繍)とが上下にセットで並べらていれます。映像では0:36頃から。さらに、そのセットと交互に並べられているのが、他者に語ってもらった最もつらい経験についての話(刺繍)と写真のセットです。語り手は友人や偶然出会った人。毎回異なる人物です。

うろ覚えですが、刺繍はカルの「人生最悪の日」の3,4日後くらいからスタートしていました。作品をスタートするのに、さすがに数日はかかったんですね。

カルの言葉は濃いグレーの布に白い糸で刺繍されています。対して、他者の語りは白い布に濃いグレーの糸。けれど、この文字の色はずっと同じではありません。カルの刺繍の文字の色は時がたつにつれて変化していくのです。徐々にグレーになっていき、最終的には布のグレーに溶け込んでしまう。

並行して、他者と語り合う頻度とカルが語る言葉も変化します。初めは毎日のように語っていたのが、数日あき、一週間あき…と徐々に間があいていきます。語る言葉も、感情があふれた激しい言葉から始まり、当日の出来事を事細かに思い出してみたり、自分の落ち度を責めたり、相手をなじったり、過去の幸せに浸ったり、人を見る目がなかったと自分にあきれたり…そんな過程を経ながら、90日後には「くどくど書く必要もない出来事」(※ニュアンス)となるまでに。その過程は「人生最悪の日」と感じた出来事への執着が徐々に薄れ、客体化されていく過程です。

ほかの人々の話を聞いて私の苦しみが相対化されるか、自分の話をさんざん人に話して聞かせた結果、もう語り尽くしたと感じるにいたる時まで、私はこのやりとりを続けることにした。*4

「人生最悪の日」とまで感じた出来事をよくここまで掘り下げたな、と思わずにはいられない。血を流している傷をえぐっているようなものだもの。でもそうして語り合うことは、カル曰く、その傷を「根治させる力を持っていた」*5

他者の語った最悪の日を読むと、やはり「死」に関することが多かったです。作品を見ながら、根治させるべき最悪の日と根治があり得ない最悪の日、根治させたくない最悪の日など色々あるのだなとも感じました。お一人「不幸を物語にしたくないし、自分の物語もまだない」(※ニュアンス)と語っていたのが新鮮でした。(え?増田さんかな?)

 

ご存じ、加藤さんってあえて自分の傷を見つめるようなところがあるじゃないですか。近いところでは6月。親しい人の突然の死に直面した感情をjohnny's webにつづっていました。「血が流れているうちに、ちゃんと記しておきたいと思って僕はこれを書いている。」と。うーん、加藤さん…。

こうした自分の感情や経験に対する執拗さのようなものが、この作品と重なったので選んでみました。

カルは「人生最悪の日」を忘れ去りたかったのに対して、加藤さんは自分の中に位置づけようとしているように感じられるし、この行為をカルは「厄払い」*6、johnny's webでの加藤さんは「弔い」と表現しているのも対照的だけれども。それは、この作品でのカルの体験は「死」ではなく、加藤さんの体験は「死」であることの違いが大きいのだろうと思います。それでも、その時の感情を何らかの形で表現することで感情と少し距離を置けるようにする、というところは共通しているな、と。

とりあえず、文字を使った作品を入れられたので満足(笑)

 

 

2.「過去の記憶に対峙する加藤さん」について

石内 都 シリーズ「Innocence」1995-2017年/ゼラチン・シルバー・プリント

yokohama.art.museum


横浜美術館「石内 都 肌理と写真」

傷つくことでしか生きていけないとしたら、皮膚の上にあるキズアトは生きている証拠そのものであるけれど、女性のからだにのこる傷は重い時間のカタチとしてある。

はかりしれない悲しみや、くらべることのできない固有の苦しみは、長い日常の中をくぐりぬけ、傷を受けたその日の瞬間を、化石のように干からびた過去にすることなく、脈々と息づき今日にいたる。

こちらの言葉は作品集 『INNOCENCE』*7 からの抜粋。女性の傷跡を撮影したシリーズである「Innocence」には、痛々しさを強調するのではなく、傷跡を愛おしむような視線を感じました。”愛おしむ”とは必ずしも”肯定する”ということではなく、”存在を認める”といったような感じ。自分と分かちがたい存在、としての傷跡、というような。モノクロの柔らかい光がそう感じさせるのかもしれません。映像では0:05~0:15頃が展示風景です。

 

先ほどjohnny's webでの加藤さんの言葉を取り上げましたが、こちらは『小説トリッパー』に連載されているエッセイ「できることならスティードで」のイメージに近いかも。(相変わらず加藤さんの小説を読んでいない不届きなファンながら、「できることならスティードで」はたまに読むようになったよ!←全然胸張れない。)このエッセイには、何かの出来事をきっかけに過去の体験を引き出してきて、その時の感情をふりかえり現在地から改めて見つめなおして感じ方の変化なんかを書きつづる、という行程がしばしば見られる気がします。

記憶って、脳に残った傷跡のようなもの、と言えるのかなと。かさぶたになっても、普段は気にしなくなっても、今の自分をつくるものとして確実に存在するんですよね。

「できることならスティードで」で取り上げられるのは血を流した”傷跡”のような辛い記憶ではないのですが、自分が生きてきた時間を愛おしみながらふりかえるようなところが、傷跡を愛おしむこの「Innocence」のシリーズと重なるように思えました。

横浜美術館での展覧会で見たときよりも時間がたってからの方が、なぜか加藤さんのイメージに重なってきました。展覧会では展示された部屋のピンク色の壁に引っ張られたのかも?あるいは記憶が自分の都合よくぼやけてなじんできたのかもしれません。やっぱり受け止め方って変化するよなぁ(適当な入れ込みw)。

 

 

3.「人間の苦悩に対峙する加藤さん」について

フランシス・ベーコン《叫ぶ教皇の頭部のための習作》1952年/油彩・キャンバス/49.5×39.4㎝

Study of a Head, 1952

展覧会情報フランシス・ベーコン展

実はこの作品じゃなくてもいいんだけど(おい)。”ザ” フランシス・ベーコンである『ベラスケスによる教皇インノケンティウス10世の肖像に基づく習作』*8 がいいな~と思ったものの、残念ながら実物を見た記憶がないので一応見たことがある関連作品を挙げた、という状況です(見たことある作品を選ぶという前提どうした)。

en.wikipedia.org

↑ これね。(画像が見えるので貼りました。)『叫ぶ教皇の頭部のための習作』とは違う作品だけどね。うん、印象も違うけど。以下、ほぼ『ベラスケスによる教皇インノケンティウス10世の肖像に基づく習作』のイメージで語りますんでよろしくお願いします。

あと、この作品、苦手な方もいるかもしれないけれど、私は好きで選んでます。好きというか「すげー作品だ…」って感じ?だから許して。(誰に。)加藤さんも好きだよね?フランシス・ベーコン。(決めつけ。)え?好きじゃないって?え?

 

なんだかね、”人間”って感じがするのですよね。精神と肉体、理想と現実、欲望と理性、一個人と象徴、等々の激しいジレンマを感じるのです。からだは大人しく椅子に腰かけているように見えるのに、頭部は激しく叫び、消えかけている…。そんな絵の様子が、見た目は平然としているのに心では苦悩し叫んでいる人物、というイメージを与えるのかもしれません。世俗を離れた格式ばっている衣装を身に着けていることも、叫びとのギャップを大きくしているのかも。(完全に『ベラスケスによる教皇インノケンティウス10世の肖像に基づく習作』の話でごめん。)

椅子は電気椅子にも見えますね。黄色い線に囲まれて動けなくなっているようにも。「教皇」の象徴としての「椅子」に縛り付けられながら、「教皇」らしからぬ感情に引き裂かれている、とも感じられる。妄想すると果てしない。(関係ないですが、加藤さんが主演した舞台『グリーンマイル』を思い出したり。)

いや~インパクトがある作品だー。

加藤さんとの関連性は…なんとなく?人間が肉体を持っている以上は逃れられない苦悩。加藤さんはそうした苦悩を自覚しながら、その苦悩までも自分の中に取り込もうとしているようなある種の貪欲さ?を感じる人なのですよね。個人的には。「アイドル」という象徴を自ら背負ってる人だってことが大きいかな。(うん、やっぱり2017年と同じようなことを言っている…。)

 

 

なんだか…すみません…選んだ作品が全般的に暗めで。(自覚はある。)

けれども、そうした暗さって人間多かれ少なかれあるものではないでしょうか。そうした面にまっこうから向き合おうとし、その葛藤を隠さない人がいると、その態度に勇気づけられたり救われたりする人もいるのだと思います。加藤さんはそういう存在でもあるんだろうな。あくまで私が思う加藤さんの一面ですが。

こういうキツイことを継続してやっている人は精神の安全弁も発達していくのではないかと思うけれど、くれぐれも無理はせず!まぁ、まずは生きていくことが大事だから!!ね!!俺もいるし!!って小山さんも言ってくれるよ!!(?) 

 

 

…改めまして。

ほのかに生きにくそうだけど、それが楽しそうな加藤さん!!

そんなところと、ざっくりおおざっぱなところが共存しているのが愛らしいよ!!(フォロー)

32歳も、加藤さんが創造に苦しんだり喜んだりしながら、積み重ねたり不意に新しいところへ行けちゃったりする1年になりますように

 

最後はスピッツ!(NEWアルバム『見っけ』が10月に出るよ~!*9) 

今一番、加藤さんだな~と感じるスピッツ

ババロア収録:アルバム『三日月ロック』2002

三日月ロック | SPITZ OFFICIAL WEB SITE

tower.jp

ババロア

ババロア

  • provided courtesy of iTunes

やはりタワレコiTunesの視聴部分はつながってるのだね!

スピッツ ババロア 歌詞 - 歌ネット

刹那的な疾走感が良い。

どこの歌詞をピックアップするか迷います。加藤さんにしっくりくる詞が多くて。だから選んでるんだけど。

まだ壊れないでよ

ナイーブで雑なドラマ

奥の方にあった傷あとも 今は外にさらす

とか…個人的には「加藤さーーーーんっ!」ってなります(笑)

着地する日まで 暖かい嘘も捨てないでいる

も良い。

いつか壊れるとわかっていても、嘘とわかっていても、それも含めてまるっと大切に想う、というところ?あるいは「いつかは…だと、わかってるよ」という態度をとることで予防線をはって逆に自分を守ろうとしているような、自分の弱さを自覚している強さ、みたいなところ?恋愛ドラマをやるなら、加藤さんには弱くてずるくて魅力的な人をやっていただきたいですね~。

作品と同様、曲もちょっと切羽詰まった感じですが。昨年すでに選んでいたので、当時の私の心理状況が反映されてしまっているのかも。今、ちゃんと選びなおせば違う曲になるかもしれないけれど、昨年から今年にかけての加藤さんの印象の記録として残しておきたいと思います。

輝くためのニセモノさ だから俺は飛べる

きっと容易い”ホンモノ”なんて信じない加藤さん。だけど、心の奥底では”ニセモノ”がいつか自分にとっての”ホンモノ”になることを信じている。信じていてほしい。そう思います。

ゔ…なんか重い…。ほどよく”適当に”生きてね!過労はいかんよ?(誰)

 

 

ついでに貼っときます。他のメンバーの×アートシリーズ。読みにくいし共感もしにくい内容だろうと思いますが(汗) 求む、文才。(本を読め。)

↓ 今年の増田さんイメージ

chikachika04.hateblo.jp

↓ 昨年の小山さんイメージ

chikachika04.hateblo.jp

 

 

*1:愛も希望もつくりはじめる:今、「加藤さん。」なスピッツ3曲 - キラキラの方へ。

*2:https://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/382/

*3:0:30頃から

*4:展覧館で配布されたペーパーのテキストより

*5:展覧会で配布されたペーパーのテキストより

*6:展覧会で配布されたペーパーのテキストより「この方法は根治させる力を持っていた。三ヵ月後、私はもう苦しまなくなっていたのだ。厄払いが成功してしまうと、ぶり返すのが怖かったので私はこの一件を忘れ去った。十五年たって、私はそれを掘り起こすのである。」

*7:石内都/2007.5.1/株式会社赤々舎

*8:https://emuseum.desmoinesartcenter.org/objects/38136/study-after-velazquezs-portrait-of-pope-innocent-x?ctx=507f5a64-cee7-4e5d-89c3-08cfed0d89be&idx=0

*9:https://spitz-web.com/mikke/album/