キラキラの方へ。

しがないミソジのゆるふわ雑記

私は24時間テレビに期待したい

私は「24時間テレビ」に期待している。

これは皮肉でもなんでもない。

高齢者や障がい者、さらには途上国の福祉の実情を視聴者に知らせる」*1 ことに24時間費やすのは、1年を通してこの番組だけなのだから。

 

24時間テレビを見るきっかけになったのは嵐だった。2012年の嵐3回目のメインパーソナリティーの時に初め見た。見ていないながらも24時間テレビへのイメージはある程度あって、それは今も見たことがない方々とほぼ同じようなものだったと思う。嵐が出るとはいえ、もんもんとした気持ちを抱えながらの初試聴だった。

予想外にも、そこで私の偏見の一部は払拭された。出演者は真剣だし、ちゃんと感じているし、伝えようとしているということがわかったから。

けれど、改めて考えてみたいと思う。24時間テレビのことを。

今回私が違和感を感じてしまった24時間テレビの側面は、きっとずっとあったものだから。24時間テレビの全てを否定したいわけじゃ決してない。でも、在った違和感を無かったことにせず、書いておこうと思う。*2

 

【目次】

 

 

1)動機 

 

今年、実は私は期待していた。それは昨年NHKの『バリバラ』*3 から『感動ポルノ』*4 という形容できついつっこみを入れられていたからだ。それを受けて24時間テレビはどう出るのだろうかと。

残念なことが起こったのは、特別養子縁組について取り上げたコーナーでのことだった。

まず、ある”告白”をしたいと応募してきたある親子が紹介された。そして「一見幸せそうな家族」という男性ナレーション。(画面にも「幸せそうな家族」というテロップ。)そして「しかし…その告白は驚くべき内容でした」と続き、実は「私の子どもじゃない」という母親の告白となったのだった。

これに私は別の意味で驚いてしまった。

「幸せそうな家族」≠養子縁組の家族とでもいうのだろうか?それに、「驚くべき内容」という表現が適切なのか?いたずらに「衝撃的」に扱うべきことだろうか?違和感を感じた。

ここで勘違いしてほしくないのだが、私はこの”告白”自体に違和感があるのではない。そうした「真実告知」については以前ドキュメンタリー番組を見たことがあった。何も知らなかった私は物心ついてから伝えるものなのかと漠然と思っていたので、物心つく前に伝えることが多くなっていると知り驚いた。そして伝える時の決まった年齢などなくて、それぞれの親が悩み決断して伝えていることを知った。(24時間テレビのコーナー内でも物心つく前の4~6歳ごろの告知が増えていると紹介されていた。)だから、その決断を自らでして、テレビを利用することも自分で決めたのなら、その母親が「真実告知」をすることについて批判するつもりはない。テレビの前で初めての「真実告知」を行なうことに賛否両論あるのはわかる。子どもの顔出しは避けることもできただろう。でも、隠すようなことじゃない、もっと知ってほしい、考えてほしい、という母親の意思があるのだとしたら、明確に白黒つけられることではないと思う。(ちなみに以前見たドキュメンタリーでは、養子だと知ると、日本では「かわいそう」という反応をされることに驚くと言う海外在住の夫婦も紹介されていた。)

そうではなく、この家族や状況を表現する言葉が、全く相応しくない、と言いたいのだ。全てナレーションの言葉に対する違和感。けれど、そのナレーションは24時間テレビの「演出」を象徴しているように感じられて、私をがっかりさせた。

実は”告白”を待たずに、家族がチャンネルを変えたいと言ってきたため、その後は見られなかった。(私も抵抗する気力を失っていた。)けれど、これを書くにあたって某所で続きを見た。するとナレーションはさらに「本当の親子のように一緒に歩んできた5年間ですが」と続いた。そして”告白”を終えた後には「ずっと心に秘めていた隠し事がなくなり、本当の親子になった」というナレーション。…ああ、やっぱりダメだ。私の思い過ごしじゃなかった。ナレーションが完全にダメ。様々な事情でそうした”告白”をしないことを選択している家庭だってあるだろうに。伝えるか伝えないか悩んでいる家族だって、気がついていても言い出さないでいる子どもだっているだろうに。「隠し事がなくなった」=「本当の親子」とは、なんて暴力的な表現。そんなことにも想像力が及ばないのだろうか。

番組冒頭では、母親の「普通の子じゃない」という言葉に傷ついた義足の女性を紹介していた。にも関わらず「幸せそうな家族」とか「本当の親子」とか、とても抽象的で価値観や状況によって異なるような表現で、この親子をまとめてきたのだ。

もし出演者本人がこうした表現を使用していたのなら、ナレーションがそれを引用するのもしょうがないかもしれない。しかし誰もそんな表現は使っていない。唯一「本当の」は出てくるけれど、それは「本当のママじゃない」んだという母親の「真実告知」の言葉。それは、まだ小さい子に伝わるように、あえて厳選しだ言葉なのだと思う。やりとりの様子はとても真剣だったし、軽い気持ちで言った言葉ではないだろう。なのに。

”告白”現場に同席し、武道館でもVTR後のコメントを求められた櫻井翔さんは「これが新たな一歩と言うよりは、また昨日と明日と変わらないような一日になったらいいなと思ってます。(前後略)」と、述べていた。ナレーションとは明らかに違うテンション。何でこんなナレーションになっちゃったんだろう?確かに言葉は難しい。どう表現すれば良かったのか、正解を提示できるわけじゃない。だけど、今回伝えることをメインテーマにすえているにも関わらず、これか…。”テレビ番組”にするために、ここまで「衝撃的」に味付けする必要があるんだろうか?『感動ポルノ』という言葉が改めて意識された。

 

「え、そんな一言二言で?しかも一つのコーナーの?」と思われる方もいるだろう。(私も、一人だったら、それでもチャンネルを変えずに見ていただろうとは思う。)

けれど、そうした繊細さの無さを、今回私は他にも感じた。

まず、下記のコーナー紹介。

「フィギュア羽生結弦 テレビ初告白 少年と夢のアイスショーwith 郷ひろみ

2歳の時に小児ぜんそくと診断された羽生結弦選手が、病気を言い訳にせず世界のトップで戦い続ける思いをテレビで初告白。今回、羽生選手は同じぜんそくの少年にスケートを指導。
郷ひろみと共に病気に負けないで頑張っている子ども達にエールを送る夢のアイスショーを開催します。

特に「病気を言い訳にせず」という部分。「病気に負けないで」という表現もどうかと思う。「病気」を「戦争」に言い換えてみてほしい。戦時下の子どもに「戦争を言い訳にせず」という形容を使えるだろうか?戦争と同じように、病気を背負った子どもたちにも何のとがもないのだ。本人がそう表現するのはかまわない。そう思うことで気持ちを奮い立たせるタイプもいるだろう。他にも、同じ境遇の人間があえて言ってみせることもあるかもしれない。でもそれは互いの理解や信頼関係があって初めて行なわれるべきことだ。この紹介文には、元熱血教師がそのころの成功体験を引きずったまま、テレビ越しの何の関係もない青少年にまで、そうした熱い言葉をかけている時のような違和感があった。

24時間テレビは番組の公式ツイッターでもこの表現を使い、結果物議をかもしていた。 (医療的観点からも問題のある表現のようだ。)

このコーナーを見た。そうしたら、ナレーションではやはり「言い訳」という言葉を使っていた。しかし羽生選手は一度もそんな言い方をしていなかった。羽生選手は同じ境遇の男の子に「みんなと違う経験をしてるかもしれないけど、自分にとっては普通じゃない?別に人と比べる必要はないよ」と気負いなくナチュラルに話しかけていた。ナレーションと出演者の意識のかい離をまた感じた。

 

個人的には、こちらも気になった。「24時間テレビドラマスペシャル 『時代をつくった男 阿久悠物語』」のラテ欄の紹介文だ。「名曲5000生んだ天才作詞家知られざる苦悩・・・支えた妻の愛」というものだった。「支えた妻の愛」か…と。阿久悠氏をよく知っている人ならば、もしかすると「そんな存在が?」と興味をもつのかもしれないが、そういう年代をねらったドラマなのだろうか?実際に「支えた」のだろうが、型にはまった表現過ぎるのではないかと思えた。それに、そうした「内助の功」的価値観を見所として前面に出してくる番組の感性に疑問を感じた。

ここでも書いておきたいのだが、亀梨和也さん演じる阿久悠氏は新たな強い女性像を意識的に描いた作詞家であることがドラマでは強調されていた。松下奈緒さん演じる妻も一風変わっていて、家で待っている妻ではなく自分の好きなことを楽しみ、精神的には自立し合いながら大切にしあう夫婦として描かれていた。そして田中圭さん演じる上村一夫氏という大切な友人の存在も。なのに紹介文は「支えた妻の愛」。文字数での限界はあるだろうが、もっと他に何かなかったのだろうか?単純な感動のパターンに当てはめてしまってはいないだろうか?

 

これは重箱のスミをつつくような指摘だろうか?私は違うように思う。「スミ」ではなくて「重箱」規模の問題ではないだろうか。例えるなら、中の料理の素材は充実しているし、それぞれが”本物”なのに、ゆがんだ形の「重箱」につめられてしまっている、という状態。24時間テレビをちゃんと見ない人には、重箱しか見えないのだから大問題だ。

では、ナレーションや告知を修正すればそれで解消されるのか?残念ながらそれだけでない気がする。構造が単調になってしまっているのではないだろうか?重箱で例えるなら「味付け」、つまり演出が。2012年の嵐から見始め、もちろん全て見ているわけではないけれど、メイン企画内容を確認したときに「あまり進展がないな」と思ったのは、そうした構造の単調さがどこからともなく感じられるからだろう。

 

そこで、ではどうなれば「進展」したと思えるのか、考えてみたいと思った。

主に障害のある人との企画に関して取り上げる。(「しょうがい」には「障碍」や「障がい」といった様々な記載についての考え方がある。今回は『バリバラ』で使用されている「障害」を使用したいと思う。)

私は当事者ではないし、教育や福祉の密な関係者でもない。そんな立場なので、たぶんとても浅い。浅さゆえに繊細さに欠けたり、一面的だったりすることを私自身がしてしまうかもしれない。こわい。けれど、一度書いておきたい思う。それと、私が見ていないだけでもう充分やっているのだったら、「勘違いしていてごめんなさい」と謝りつつ喜びたい。

 

 

2)24時間テレビに期待すること

 

・個人のがんばり以外にも目を向けてほしい

今回の『バリバラ』のあそどっくさんのコーナーには思わず心動かされてしまった。自力で移動することができないあそどっくさんが熊本にある日本一長い3,333段の石段を登る挑戦。階段版ヒッチハイクのようなもので、高齢の人から子どもまで、色々な人の手を借りてじわじわ登っていく。途中、このペースで行くとヘルパーさんの拘束時間を過ぎてしまうため(この理由も味わい深い)断念するか?という状況になるのだが、階段を使ったトレーニング中の熊本高校サッカー部の集団に残りの段数をお願いできることになって、見事”夢”が達成できたのだった。あそどっくさんは「帰りもお願いします」と学生にちゃっかり伝えて、人に頼むという姿勢をひょうひょうと貫いていた。

私が心動かされたのは、あそどっくさんのような障害者と直接関わったことがないような人達が、戸惑いながらも、協力していた様子なのかもしれない。そうした人達はものすごくがんばって協力しているわけではない。「あそどっくさんを頂上に連れて行くために何週間もトレーニングをつみました」とか「あそどっくさんは本当にがんばっているので、僕もそれを返したいと思いました」みたいなことは全くない。こう言うと御幣があるかもしれないが、偶然通りかかった人が、無理のない範囲で協力しただけ。でもそれが素敵なことだと思った。できなかったりやりにくいことを”克服”するために”立ち向かう”みたいなやりかたもあるだろう。(あそどっくさんの登頂だって、感動演出にしようとすればできるだろう。)でもそれだけじゃない。少しずつ助け合うことで、どこかに大きな負担がかかることなく実現できることもある、というシンプルなことが感じられた。

24時間テレビは「やってあげている」ように見えることを排除しようと気を使いすぎるためか「本人の努力」を強調し、「協力し合えることは、協力し合う」みたいなことを取り除いてしまいがちなのではないだろうか。苦手な部分をサポートしあいながら挑戦するコーナーがあっても良いと思う。それも、力を入れすぎないで。共生社会というのはそういうものではないのかなと思ったりする。

 

・個人や家族以外のつながりにも言及してほしい

たいていのコーナーが本人と家族で完結してしまっている気がする。もっと幅広い関係に目を向けたコーナーがあっても良いのではないだろうか。

今回の企画「林修が日本一のチョーク工場へ 社員7割が知的障がい者」は、そういう意味では珍しいコーナーだった。

日本のチョーク業界シェア率ナンバー1を誇る会社「日本理化学工業株式会社」実は社員7割が知的障がい者である。「障がいがあるから仕事が出来ない」と決めつけず、「どうすれば健常者の手を借りず作業出来るのか」を考え、知的障がい者の人と共に成長した会社を林修が訪れる。

最初はかわいそうという同情→でも、障害がある人にとっての働く意味をとらえなおして→力が発揮できるよう工夫をして環境を整えた、ということだった。こうした社会的なつながりやサポートを取り上げることも増えたら良いなと思う。(ただし、働ける人ばかりを持ち上げる演出は避けてほしい。また、障害のある人が働く場の多様性や地域とのつながり等も紹介していってほしい。)

それと、障害のある人同士のつながりももっと取り上げられると良いのではないだろうか。今年の『ハートネットTV』で「働く聴覚障害者限定! 静かで熱い座談会」*5 という聴覚障害の人が複数人あつまってトークする企画があった。同じ「聴覚障害者」でも、それぞれの状況が大きく異なっていてとても興味深かった。障害のある人同士の交流を通して障害の多様さへの理解が深まるし、そうした障害がある人との関り方についても考えられる機会になると思う。

個人を取り上げると、どうしてもその人がその障害者の代表のように見えてしまいがちになる。そうした懸念も減らせるのではないだろうか。

 

・取り上げ方が難しいところ、わかりにくいところにも挑戦してほしい

29年度のデータによると*6、単一の障害種を対象とする特別支援学校の在学生100,770名のうち、知的障害の学生は78,955名(78%)、複数の障害種を対象とする特別支援学校の在学生39,051名のうち、一番多いのは知的と肢体不自由の重複障害の学生25,503名(65%)だという。

今回、知的障害の人を主にしたメイン企画は「林修が日本一のチョーク工場へ 社員7割が知的障がい者」と「子ども達が夢の仮装大賞に挑戦!仮装レジェンドと共演」の2つ。知的障害の人の状況は千差万別なので、それをふまえるとわりと狭い範囲が取り上げられていたように感じる。わかりやすさに落ち着かずに、もっと伝えることや理解することの難しさを含めて伝えてくれたら良いのにと思う。

 

・今、乗り越えていない人についても考えてほしい

今、一番サポートがほしいのは、”乗りこえ”られていない状況の人だろう。そういう人に手を伸ばせる企画はつくれないだろうか。困難な状況にある個人を取材するのは難しいと思うし、無神経なことになるかもしれないので、困難を抱える分野として特集するとかなら可能なのではないだろうか。

 

・健常者の意識にもスポットをあててほしい

普段障害者と関わる機会が少ない健常者にスポットを当てるコーナーがあっても良いのではないか。

『バリバラ』がやっている「ココがズレてる健常者」*7 的なことを、違うアプローチでも見てみたい。*8

 

・バラエティコーナーでも多様な人と関わってほしい

 『嵐にしやがれ』を今年も楽しんだ。でもせっかく24時間テレビの中でやるなら、障害のある人も何か関われないのだろうか。

普段接することが少ないだろうから、難しいところはあるかもと思う。でも難しいままで良いのだろうか?とも思う。24時間テレビの機会を使って、慣れていったら良いのではないだろうか。芸能人のそうした姿を見て、視聴者も障害のある人との接し方を省みられる。視聴者が自分の無理解を恥ずかしく思うくらいになったらすごいと思う。今年も小山慶一郎さんがさらっと手話をやる姿には尊敬のまなざしを向けてしまった。そういう体験をもっと増やしてほしい。

また、「感動」の中だけに障害者を閉じ込めることから脱することにもつながると思う。

 

・旬の作品とつながってほしい

24時間テレビのテーマとつながるような問題を扱った作品が毎年話題になっている。

例えば、2014年の『チョコレートドーナツ』*9、2015年の『みんなの学校』*10、2016年なら『聲の形*11 等。私は『聲の形』は見ていない。けれど、話題にはなっていたので興味はある。

こういう話題になった作品は、そのアプローチに賛否両論を巻き起こすものだったりするけれど、話題になる理由があると思う。どうして話題になっているのか、異なる意見や課題点もしっかりと紹介しながら、その作品が問いかけていることを考える機会を作ってほしい。

 

・ハード面や社会的な課題にも触れてほしい

今回の24時間テレビには下記のようなコーナーがあった。

「家族を支える母の右手~希望の義手~」

最新医療・最新技術:筋電義手筋電義手とは、筋肉が発する微弱な電気信号を利用して操作する義手のこと。日本での筋電義手普及率の低さ、そして現状を石原さとみが紹介する。

コーナーでは筋電義手の普及率は日本1%(ドイツ70%)だということ、使いこなすには1年くらいの訓練が必要なことを紹介しつつ、現在の日本の制度見直しについても言及していた。

こうした提案を扱うコーナーを支持したい。テレビで知らせる意義があると思う。

 

・福祉的メインコーナーを設けてほしい

メイン企画として、福祉界注目課題のようなコーナーを設けてほしい。

今年であれば、私は相模原障害者殺傷事件を取り上げてほしかった。福祉業界では話題にならざるを得ない事件だった。私自身、福祉関係に関わっている人と会うたびに話に出た事件だ。

昨年も今年も、24時間テレビを全て確認しているわけではないので、もしかすると扱っているのかもしれない。しかし、コーナー説明の言葉には一度も出てきていない。コーナーで扱うことが必要なテーマだと思う。(『バリバラ』、『ハートネットTV』はドキュメンタリー、テーマ論争など、経過を追ったり形を変えたりして何度も何度も取り上げていた。今年も7月に生放送を行なっている。)

そして、毎年、そうしたメインコーナーを設けてほしい。普段福祉系の問題に関心が薄い人にも見てもらえるという24時間テレビの力を発揮してほしい。

 

・毎年繰り返し、深まって行くコーナーがほしい

24時間テレビは、毎年振り出しからはじめているように感じられてしまう。

出演者は毎回違うのだし、24時間テレビを初めて見る人だっているのだからそうなるのもわかる。初めて見るようになった子どもたちだっているだろう。

だけど、私のように何度も見ている人間もいるのだし、深まっていったり継続するコーナーがあっても良いのではないだろうか。解決していない問題のその後を継続的に追うようなコーナーでも良いかもしれないし、もちろん楽しい系のコーナーでも良い。

 

・継続的な支援、社会的サポートやインフラ整備につながるようなアナウンスをしてほしい

24時間の募金で終わらないように、何か日常的にできる支援の方法をもっと紹介できないものだろうか。

お金がからんでくると紹介が難しくなることはあるだろう。なので、紹介先は公的な物事に絞られるかもしれない。それでも意義があると思う。

応急処置のハウツーなどを短いコーナーとして、24時間テレビの間に複数回扱ってはどうか、というツイートも見かけた。そうした医療的支援方法や、様々な障害のある人へのサポート例を紹介しても良いかもしれない。(『バリバラ』によると、同じ障害でも人よってサポートしてほしいことは異なるので、本人の意思を確認してほしいということだった。サポートの方法も型にはまった紹介にならないように気をつけてもらえると良いと思う。)

 

・これらの変化が、ライトな視聴者にもわかるくらいにしてほしい

私はコマーシャル中などにチャンネルを変えてもらったり、時折テレビをつけて確認をしていたのだが、たいてい感動的なBGMが流れていた。また、「つらかった→がんばった・支えた→のりこえた→ありがとう」の流れのどこかか…と心のどこかで思ってしまった。出演者は何も悪くない。でも「パターン化」して見えてしまう。「おっ」と思わせる変化をもっと感じさせてほしい。企画名やコーナー紹介を見ただけでも『感動ポルノ』から脱したことが伝わるようになったらすごいと思う。

 

 

 

3)終わりに 

 

24時間テレビでは、「24時間テレビの意義」が下記のように記載されている。

1978年(昭和53年)、日本テレビ開局25周年を記念し、テレビの持つメディアとしての特性を最大限に活用し、高齢者や障がい者、さらには途上国の福祉の実情を視聴者に知らせるとともに、広く募金を集め、思いやりのあふれた世の中を作るために活用する、との企画意図で始まりました。この募金の趣旨に沿った福祉活動を実施するため、非営利の任意団体「24時間テレビ」チャリティー委員会が組織され、現在では公益社団法人に移行し、国内外での活動を行っています。今「24時間テレビ」は、福祉・環境・災害復興の三本柱を援助の対象に掲げています。ともに同じ地球上に生きる人間として、さまざまな理由で苦しんでいる人々をこれからも支援していきます。またテレビメディアとしての機能を遺憾なく発揮し、私たちに何ができるかを訴え続けていきます。

これを見ると、「募金」が24時間テレビの大きな目的の一つであることがわかる。会場には毎年大きな募金集計モニターが設置され、最終募金額はその年の成果の指標の一つともなっているようだ。

そして、「募金」のために、健常者が寄付したくなるような番組作りをすることが正しいとするなら、私の提案のほとんどは意味がないものなのかもしれない。

「普通の子じゃない」と言われて傷ついた女性の挑戦が達成されたとき、その言葉を過去に投げかけてしまった母親が「普通の子以上にがんばり屋」と彼女をたたえていた。言っておきたいが、この言葉について批判する気は一切ない。ただ、この言葉には24時間テレビの演出が凝縮されているように思えてしまった。

24時間テレビでは、障害のある人が”普通”の人以上にがんばる姿が強調されるように感じる。まず、悲劇や困難が強調され、視聴者には苦しい状況にある人をサポートしたいという気持ちがわく。そして”普通”以上にがんばる姿を見せて、視聴者はその人にはサポートを受ける価値があると考える。こういうパターンをどうしても感じてとってしまう。そして、これこそが『感動ポルノ』と言われるものであり、かつ、短期的には募金につながりやすい構造なのではないだろうか。

でも、このパターンに留まることには危険がはらむように思う。逆説的に考えると、”普通”以上にがんばらないと、サポートする”価値”がないということにもなってしまいかねないから。

24時間テレビには、そんなつもりはないだろう。

でも、わかりやすい「感動」に安住していて良いのだろうか?と。

 

今回、この記事を書くにあたって、生では見られなかった部分もなるべく見るようにした。そうしたらやっぱり訴えかけられる瞬間があったし、出演者は活き活きとしていた。*12 個別に感想を書く余力がなくて申し訳ない。

テレビ番組なので、最終形がエンタメ系かスポーツ系に偏ってしまうのもわかる。それに今年は根性系の企画が少なめになったような気がしたし、根性系に挑戦するのも高校生以上が多くて個人的には安心した。また「告白」というテーマも、いわゆる”やらせ”のような企画をしなくても、”感動的”なシーンが自ずとつくれるので、よく考えられた設定だなとも思った。(ただし、どうしても”感動”の話になってしまうのだが…。)24時間テレビならではの特徴を出すことに難しさはあるのだろうが、少しずつ変わってきているのかなとも思う。私の脳みそではこれで限界だったけれど、きっと他にないおもしろさを見せていってくれるに違いない。

 

と、いうことで、私は来年の24時間テレビにも期待している。

そして『バリバラ』のつっこみや『ハートネットTV』*13 の丁寧さにも。

 

 

*1:24時間テレビ24時間テレビの意義」より

*2:日本テレビのディレクター岩下莞爾氏の手紙にもあったので。あと、今回は「である」調…気分的に。

*3:NHK バリバラ | 番組紹介

*4:『感動ポルノ』番組の構造を、感動へのステップ①大変な日常→ステップ②過去の栄光→ステップ③悲劇→ステップ④仲間の支え→ステップ⑤いつでもポジティブ、と分析していた。また、「不幸でかわいそう」×「けなげにがんばる」=「感動」の方程式であると。

*5:http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/program/index.html?id=201706132000

*6:http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/06/29/1386911_001.pdf

*7:NHK バリバラ | ココがズレてる健常者

*8:話は飛ぶが、アイドルがパーソナリティをつとめることはとても意味があると思う。アイドルが関わっていることで、興味をもつきっかけになることが一つ。アイドルの人となりや成長や変化を見たいから、そうした番組には試聴意欲がわくことがもう一つ。そして、アイドルに感情移入して追体験しやすくなることが一つ。アイドルの人々には、どんどん色んな体験をして、私達視聴者を考えさせてほしい。

*9:映画『チョコレートドーナツ』 オフィシャルサイト

*10:映画『みんなの学校』公式サイト

*11:映画『聲の形』公式サイト

*12:ここに書くけど、今年のパーソナリティについて言えば、石原さとみちゃんは色々すげーなと感心したし、小山さんの感情表現の豊かさやアイドルアピールにもぐっときたし、亀梨くんの歌声や決めるとこ決める感も良かったし、翔さんのお祖父さんのコーナーでの「こんな家族の物語をテレビでお伝えするのは恥ずかしい限りなんですけれど、このVTRをもってお伝えしたいことはただ一つで、僕ができなかったおじいさんとかおばあさんとかひいおじいさんとかひいおばあさんとか、もしご存命のご家族がいるなら、まさに”告白”と言うか、別に戦争のことだけじゃなくていいんですけれども、その時代に何を感じどう思ったのかということを是非今ご覧いただいたみなさんにも聞いてもらいたいなという風に思います」という言葉は彼が言う意味があったんじゃないかとすごく思った。思い上がりなんかじゃないよ!

*13:「#8月31日の夜に。」の企画も挑戦的で良かった。