キラキラの方へ。

しがないミソジのゆるふわ雑記

試されるワタシ

やっぱり結局もんもんとしている。自分の気持ちがゆらゆら右へ左へ上へ下へ落ち着いてくれない。

自分がどういう視点でこの事態に対処するかが定まらない。一ファンとしてなのか、一大人としてなのか、一一般人としてなのか、一人間としてなのか。

彼らとの距離のとり方も定まらない。彼らを個人として見るか、人間一般として見るか、大人として見るか、社会人やプロとして見るか、芸能人として見るか、アイドルとして見るか。

ごちゃ混ぜになって、まるで収拾がつかない。

 

彼らのダメだったところを上げようと思えば上げられる。「~すべきでなかった」「~を配慮すべきだった」「~の意識が足りなかった」「~は一般常識からは外れている」…等々々。

そう糾弾するのは、裁くのは、ファンとしての私なのか、社会人としての私なのか、一般人としての私なのか、人間としての私なのか、それによっても様々に心が動いた。

どこかに自分の軸足を置いて、どこかに彼らとの距離感を固定して、そうして考えられたらどれほどすっきりするだろう。

でも定めたところで、それではどうしても”本当”にはならないように思える。ウソではないけれど、本当でもない。居心地が悪い。

 

それに、それをはじめようとすると、そもそも論になってしまった。そもそもアイドルがキャスターをすることをどう考えているか?そもそも芸能人にどこまで求めるつもりか?そもそもリスクマネジメントはどこまで可能なのか?とか。そうすると、彼らの仕事の幅をどんどん狭めて息苦しいものにしていくか、あるいは、割りきりまくってラインを引きそれ以外は期待しない、という結論に行き着きそうな予感がした。どちらになるのもなんだか嫌だった。

 

まとまらない。自分のスタンスが。私はなんでこうなんだろう・・・と自分自身の在り方に迫られるのもきつかった。仕事でもないのに、こんなに時間をかけて、話したこともない”アイドル”のことを考えている自分ってものに嫌気がさしてきた。全てほっぽりだしてしまおうか。シャットダウンしてしまおうか。忘れてしまおうか。さもなければ、わりきってスタンスを決めてしまって、それ以外は考えなくした方が楽なのかなとも。

 

こりゃ「試される大地」ならぬ「試されるファン」だ…ってのが、心の中でプチヒットした。

つら。なんで試されにゃならんのだ。

 

これまでの数々の事態を乗り越えてきたファンの人は本当にすごい。今回のことは彼らがそれらを乗り越えてようやくじわじわと安定期に入りだし、15周年のお祝いもひかえ、期待がふくらみまくっていた矢先の出来事だ。だからこそ失望感も怒りもやりきれなさも果てしない。

そして彼らだってそれは同じはず。いや、彼らの方が。だから、自分の行いによって仕事もプライベートも人格さえも攻撃にあっている人を、あえて私が攻撃する気にはとてもなれない。

自分の気持ちを吐き出すだけでも、それは攻撃になる。いい。吐き出していい。ものすごく傷ついた人が吐き出すことで少しでも楽になれるなら。だけど私は荒い言葉をぶつけなくてはいられないほどには、ファンとして哀しいことかもしれないけれど、傷ついてはいない。

じゃあ諭してみる?それもいい。それは彼らを信じていたからだ。期待していたからだ。それか、今も期待しているからだ。きつく言わないことは、彼らを堕落させるのだろうか?でも、やくざな生活している私には社会人として述べられる言葉もない。

 

結局、前2つの内容も中途半端になっていると思う。自分の立場も中途半端だから。ファンとしても大人としても。

もっとしっかりした人間でいれたら、しっかりした熱いあるいは冷静な言葉をつむげたのかもしれない。自分にもがっかりしている。

でも、それが現状の自分。今はあまり無理をしたくない。逃げかもしれないけれど。

 

前回書いたときには少し整理できた気がしたのにな。けれど、色々な人の反応に触れて、再び頭の中が混沌としてきた。しばらくは揺れまくっていることでしょう。それが正直なところ。定まるまで無言を貫くということも考えたけれど…とりあえずここに記録します。